奥の宮幣殿
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由緒と御祭神
コラム下枠下 コラム下枠右


御祭神

みつはのめのおおかみ

  • 罔象女大神   生命の源である水をつかさどる女神様

はにやまひめのおおかみ

  • 埴山姫大神   土木工事や土すべてをつかさどる女神様

くくのちのおおかみ

  • 句句廻馳大神  自然界の樹木や木すべてをつかさどる神様

かぐつちのおおかみ

  • 軻遇突知大神  鍛冶や温泉など火すべてをつかさどる神様

かなやまひこのおおかみ

  • 金山彦大神     鉱山や技工など金属すべてをつかさどる神様

うかのみたまのおおかみ

  • 倉稲魂大神   お稲荷さんと親しまれている商売繁盛の神様

すさのをのみこと

  • 素戔嗚尊     やまたのおろちを退治した厄難除けの神様

すがわらのみちざねこう

  • 菅原道真公   秀才であったことから栄進出世・学問の神様

ほんだわけのおおかみ

  • 誉田別大神   八幡大神ともいわれている国家鎮護の神様

☆ 古文書の記述により、句句廻馳大神・軻遇突知大神・金山彦大神の3神が
従来からの相殿神であることが判明致しました。


蛟蝄神社の歴史
門の宮と神木の公孫樹

▲ 門の宮の鳥居前。左手は黄葉した御神木の大イチョウ。クリックすると拡大できます。

蛟蝄神社の始まりは、約2300年前(紀元前288年)に現在の門の宮(かどのみや)の場所に水の神様の罔象女大神を祀ったのが始まりといわれています。698年に土の神様の埴山姫大神を合祀(ごうし)し、水害や民家が近いという理由で詳しい年代は分かっておりませんが社殿を東の高台 (現在の奥の宮)に神社を建てました。門の宮を取り壊すはずでしたが氏子崇敬者の声が上がり、御祭神の御魂(みたま)を分祀し門の宮にお祀り致しました。明治42年(1909年)に立木地区にあった「八坂神社(やさかじんじゃ)」「天神社(てんじんじゃ)」「稲荷神社(いなりじんじゃ)」「八幡神社(はちまんじんじゃ)」を合祀して現在もなお一層の御神徳(ごしんとく)をもって下総國相馬の郷を見守っておられます。

社名について
文間明神祇碑の上部に描かれた龍神
「みつち=こうもう」の名に由来は諸説ありますが、はるか昔この辺りが海であったころの大地の形が蛟(みつち=伝説上の龍)に似ていたためといわれております。境内の石碑に龍神様の姿をご覧いただけます(左写真。クリックすると拡大できます)。
竜神の絵馬
当社の社名は一般的にはこうもう神社と親しまれておりますが、ご祈祷のときの祝詞奏上では蛟蝄神社は「みつちのかむやしろ」と申し上げております。(写真は、奥の宮旧拝殿の龍神の大額)。

延喜式内社とは
延喜式(えんぎしき)「全五十巻」(927年)の書物の中の第九巻、第十巻の延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)にはその当時、特に重要な2861社の神社が記されております。下総國には11社の式内社(しきないしゃ)があります。蛟蝄神社は「下総國(しもうさのくに)相馬郡一座小社(そうまこおりいちざしょうしゃ)蛟蝄神社(みつちじんじゃ)」と記されております。

下総國相馬とは
下総國相馬は利根町・取手市(旧藤代町を含)・龍ケ崎の一部(北方・長沖・長沖新田・須藤堀・川原代)・守谷市・つくばみらい市(小絹)・常総市(坂手・菅生・内守谷)・我孫子市・柏市の一部(沼南・布施)の地域です。蛟蝄神社は、この地域の守り神として見守っています。

蛟蝄神社の分社
蛟蝄神社には、祭神を分祀した社が近隣に2社あります。
蛟蝄神社

取手市和田 蛟蝄神社

  • 鎮座地 取手市和田1485番地 鎮座
  • 御祭神 罔象女大神(みつはのめのおおかみ)
    軻遇突知大神(かぐつちのおおかみ)
  • 相殿神 菅原道真公
  • 創  建 1574年(天正2年)
  • 由  緒 1574年に和田民部が家臣18名を連れて和田を訪れました。土地の大半が沼地であったため和田氏の氏神として立木の蛟蝄神社の罔象女大神を分祀して祀ったのが始まりといわれております。朝夕開拓に励み、和田民部は相馬2万石の代官役になりました。1861年(文久元年)に和田氏の氏神を村の鎮守としてお祀りすることを申請して代官が快諾し、9月19日に大祭りを行ないました。なお一層の御神徳をもって和田の郷を見守っておられます。

須間神社

龍ケ崎市須藤堀 須間神社

  • 鎮座地 龍ケ崎市須藤堀町1544番地 鎮座
  • 御祭神 埴山姫大神(はにやまひめのおおかみ) 須藤刑部(すどうけいぶ)
  • 創  建 1684年(貞享元年)
  • 由  緒 蛟蝄神社のご祭神の分御霊を貞享元年12月吉日に祀りました。また一説によると、須間神社の御祭神は、初め須藤堀開拓の恩人、須藤刑部であったと言われております。昔、この地を訪れた須藤刑部は低湿地に堀を作り開拓に成功いたしました。この功績にちなんでこの地を須藤堀と改め、刑部を鎮守神として祀ったのが須間神社であったという記録も残っております。なお一層の御神徳をもって須藤堀の郷を見守っておられます。
蛟蝄神社の逸話
蛟蝄神社やその周辺地区には、数かずの逸話が残っています。立木地区周辺の地名の由来となった話や、神社の神様のご霊験・ご利益の話のほか、「だいだらぼう」と親しまれている巨人伝説など、興味深く、不思議なお話しがたくさんあります。以下、その一部をご紹介します。

逸話1 「立木」「文間」の名前の由来
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征(とうせい)のために蛟蝄神社で祈願をしたという言い伝えがあります。そのとき文馬(かざりうま=綺麗に装飾した馬)を木に繋いだということから蛟蝄神社のある地区を「立木(たつぎ)」(たづなをきにつなぐ→たづなき→たつぎ)、神社のある地域を「文間(もんま)」(文馬→文間)と呼ぶようになりました。

逸話2 明神様のご利益
絵馬雨乞い図

▲ 奥の宮所蔵の絵馬「雨乞いの図」。明治24年(1891)作、利根町指定有形文化財。長い石段の上が蛟蝄神社。クリックすると拡大できます。

明治の末ごろのこと。大房(立木の東)のある家のおばあさんが夜中になっても帰らず大騒ぎになりました。村中で探しましたが見つからずとうとう夜が明けてしまいました。朝になって村人たちが立木の明神様(蛟蝄神社)に来てみると、深い井戸の中でガバガバと音がしています。もしやというので井戸の底へ声をかけてみると、これがそのおばあさんでした。「よくまあ、こんな深い井戸に落ちて助かったものよ」と人びとがいうと、おばあさんは、「白いひげをはやしたおじいさんに抱かれて井戸の中に落ち込んだから、ほれ、このとおり、ひとつもけがをしていない」。人びとは、その白いひげのおじいさんこそ、明神様であったろうと話し合い、いまさらながら明神様のご利益のあらたかさに感じ入ったといいます。その後、深井戸は危険ということで埋められてしまいました。この井戸は、鳥居をくぐって、本殿へいく途中の中ごろ、参道の西側の、やぶの近くにあったということです。(『利根町史』大房・関口秀明談)
この井戸は、現在のどの位置にあたるかは調査中です。

逸話3 笠脱沼とみのかけ榎
笠脱沼から蛟蝄神社方面を見る

▲ 上は、笠脱沼から蛟蝄神社方面を見たもの。中央小高くなった丘陵地の中に神社があります。右手の樹木のある場所は鏃塚(やじりづか)と呼ばれ、そのさらに右に蓑掛け榎が立っていましたが落雷により現在は消失しています。

むかし、大田羅(だいだら)の神がこの地においでになり、笠をぬいで、しばらく休憩されました。ところが、その笠の重みで凹みができ、そこに水がたまって、大きな沼になってしまいました。そこで、土地の人びとは、この沼のことを笠脱沼(かさぬきぬま:笠貫沼とも書く)と呼びました。また、そのとき、大田羅の神は、近くにあった榎の木に蓑を脱いで掛けられました。その木のことを蓑掛け榎と呼んでいます。(『北相馬郡志』より)
絵馬雨乞い図2

▲ 奥の宮所蔵絵馬でもうひとつの「雨乞いの図」。右手に描かれているのが笠脱沼。左が奥の宮。クリックすると拡大できます。

なお、この笠脱沼の水で、蛟蝄神社例大祭の湯立て神事を執り行っております。また、沼から龍神様が舞い上がって神社のほうに向かわれたという逸話も残っております。

逸話4 明神の絵馬
立木村はたいへんなさわぎ。夜になるとどこからか馬がやってきて、稲を食べてしまうというのです。ある雨の日、この雨ではと田の番をとりやめたのですが、翌朝、よほど馬は腹がへっていたとみえて、いつもより広々とした場所の稲が食べられてしまいました。あるひとりが、馬の足あとを見つけ、みんなでたどっていくと、門の宮で消えています。
絵馬繋ぎ馬図

▲ 上は蛟蝄神社門の宮に所蔵されている絵馬の「繋ぎ馬図」。正徳元年(1711)に狩野元信が描いたものを領主の松平伊賀守が奉納したものといわれています。

「おい、いたぞ」。その男の指さしたほうをみて、みんなは大笑い。それは絵に描かれた馬だったのです。しかし、よく見ると、馬の口にわらくずがついていたり、4本の足にどろもついています。いままで笑っていた人たちも真剣な顔に。「そういえば、この馬の絵はえらい絵描きさんが描いたというではないか」「そうよ、いまをときめく、狩野元信という名人が描いたものよ」。あるひとりが、「この馬には、たづながついていない。だから歩き出す。狩野さまにお願いして、たづなをつけていただいたら」。
そこで、名主の市兵衛が代表となって、京の都に行き、狩野元信の家をたずねました。ところが、なんと元信は市兵衛がここにくることやその用件まであらかじめ知っていたというのです。「実は、おまえさんの村へ行ったとき馬の絵を描いたが、わざと馬にたづなをつけなかった」といいます。元信は「わたしはあの馬の絵に一生をかけるつもりでした。もしあの絵が、たづなもついていないのに、馬がどこへも出歩かないようだったら、わたしは絵を描くことをあきらめようと。だから、あなたがいつきてくれるのか、毎日毎日待っていたのです」。元信の眼からは、涙が止めどもなく流れるのでした。元信にたづなをつけられた馬の絵は、その後、2度と稲を食べに出歩くことはなくなりました。そして、今もまだ、ジッとして門の宮の中にいるのです。(『利根町の昔ばなし』高塚馨著/崙書房刊より抜粋引用)